So-net無料ブログ作成
検索選択

房総の奥座敷-木更津、亀山湖、清水川渓谷 [旅行]

先月下旬、房総の玄関口として新装なった千葉駅に集合、湾岸沿いを走る内房線に乗り換え、伝説の巷木更津へと向かった。此処は東京湾に面した交通の要所で廃藩置県の折一時木更津県の県都ともなった街である。古事記の「君去らず伝説」にもある程、古くから栄えた港町である。-日本武尊は、旅先で美しい弟橘姫と巡り会い后に迎えた。そして蝦夷征伐に向け共に相模の速水から上総へ渡ろうとした折、海神の怒りに触れ俄かに海が荒れ出し、あわや之迄…と思われた時、弟橘媛は、尊の身代わりとなり海に身を投じ難を救った。やがて上総の港に上陸した尊は愛する媛の俤を偲び、何時までも立ち去らなかったという。-之が「君不去」=「きみさらず」=「きさらず」=「木更津」の地名の起こりと伝えられる。尊がいつまでも立ち去らなかった大田山に登り、山頂の「木更津市郷土博物館」に入館し、此の地方に纏わる縄文式土器の発掘された場所や湾岸に栄えた船便の歴史を学び、突端にヤマトタケルとオトタチバナ媛の立像を掲げた「君去らずタワーに登った。此処からは媛が身を投じた東京湾は愚か対岸の相模の国迄見渡せる素晴らしい景観が望める。日本武尊で無くても暫くは立ち去り難い気持になる。

江戸時代になると内房の名だたる港は「五大力船」と称する帆船を有し、江戸との交易が盛んになり、町人文化も流入した。—「しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から巡る月日もみとせ越し…」のセリフで有名な歌舞伎「世話情浮名横櫛」。これが昭和では演歌となり♪粋な黒塀見越しの松に仇な姿の洗い髪♪の「お富さん」……となる。…与三郎はヤクザの妾お富との密会がバレ全身を切り刻まれ簀巻きにされたが、お富はその場を逃れ、海に飛び込み死んだと思っていたのだが…江戸で質屋の大番頭に囲われ優雅に暮らしていた。其処に「蝙蝠安」と連れ立って昔の男「与三郎」が登場…生きていたとはお釈迦様でもご存事あるめえ…」ってな訳である。その他、木更津甚句は五大力船の船乗の舟唄がもとで、幕末に当地出身の噺家「木更津亭柳勢」が江戸の高座で披露し流行らせ、大正時代に再び当地出身の芸妓「若福」が新橋の座敷で披露し花柳界で流行し全国に広まった。                               ハアー                                                                                                 木更津照るとも東京は曇れ                                                                                       かわい男が                                                                                             ヤッサイモッサイヤレコリャドッコイ                                                                                  コリャコーリャァー日に焼ける                                       

陸路が未発達な時代には 、船旅が主流で、京からは船で相模や江戸へ、そして江戸から川船で利根川を遡るか、相模から海上を上総へ渡り、常陸へ、更に蝦夷松前へと旅をした。木更津は其の要所として賑わった。昭和の後半にはカーフェリーも活躍したが、陸路も館山自動車道圏央道(首都圏中央連絡自動車道)や東京湾アクアラインが交差し湾上には「海ほたる」陸側にはアウトレットモール等も出来て今も交通の要所となっている。話は変るが…・戦後ラジオ英会話平川唯一先生の♪come come everybody…のメロデイが音痴な私には如何しても証城寺の狸囃子」に聞こえてならない…其の「証城寺」や与三郎の墓のある「光明寺」も観光の名所となっている。近頃では「木更津キャッツァイ」や人気ロックグループ「気志團」も此処の出である。先の大田山で時間を取り過ぎ「証城寺や光明寺」は次回にし、此処が始発の久留里線に乗り換え、見頃が十二月初旬と関東では一番遅い紅葉の名所「亀山湖」に向かった。ぶらぶらと辺りを眺め乍ら湖畔に辿り着いた時は既に午後三時を廻っていた。早速、予約してあった湖畔の宿に入り、チョコレート色の美肌の湯に浸かり疲れを癒し明日の紅葉狩りに備えた。

翌朝は、湖上からの紅葉狩りを楽しもうとクルージング船乗り場へと向かう。軽快なエンジン音をバックミュージックに水面と対に映える見事な紅葉に見惚れ、船頭さんの説明も虚ろな囁きに聞こえる様な至極の時を暫く過ごした。其の後、宿の主人のご厚意に甘え「幽玄な秘境」と俄かに有名になった清水川渓谷の「濃溝ノ滝」迄送迎して戴き…嘗て地の農家が用水確保の為手掘りで完成させたと云う「奇跡のトンネル」内を流れ落ちる絶景を鑑賞し、紅葉林の渓流沿いの木道を散策し、再び宿に戻り亀山湖の大橋から鴨川ー千葉間の急行バスに乗り「東京ドイツ村」経由でJR千葉駅に向かい帰路に就いた。


行田に行ってみませんか [旅行]

9月28日AM9時JR上野駅6番線ホームに集合して埼玉県は行田市に旅をした。行田駅で列車を降り空を仰ぐと、妙に明るく、広く、高く感じた。決して久し振りの好天の所為ばかりでは無さそうだ。不思議に思い乍ら駅前の停留所で市内循環バスに乗り替えた。窓外に走る景色を眺めていると、家並みが低い。2階以上の建物が少ない。此の辺りは荒川と利根川に挟まれた低地帯で小高い丘も見当たらない。只、平坦な道路が延々と続く、勿論、高層ビル等も見当たらない。其れで空が明るく、高く、広く感じるのだと解った。いつも脳天から押さえ着けられる様な生活をしている者にとっては限りなく羨ましい風景だ。狩猟から農耕の時代へと時が移り、両河川が運ぶ肥沃な土に恵まれた此の地に住んだ者の中に、あの古墳に葬られる様な豪族が現れた事も亦、むべなるかな......である。等々市内循環の小型バスに揺られ乍ら瞑想する内に「埼玉県名発祥の碑」が傍に立つ「さきたま史跡の博物館」に到着した。 
 
此処では「さきたま古墳群」の埴輪や稲荷山古墳から出土した国宝の金錯銘鉄剣等を拝観し、忍城水攻めに際し僅か5日にして築いたと云われる石田堤の一部を散策し「さきたま古墳群」迄足を延ばし、三成が布陣した大きさ日本一と云われる円墳、丸墓山古墳に登った。国宝の鉄剣が出土した稲荷山古墳を始め数か所の古墳群を眼下に収め、遥か彼方に忍城を望み、在りし日に此の地に栄えた豪族や成田一族の栄枯盛衰に思いを馳せた。朝食を早めに済ませた事もあり、稍々空腹も覚える。次のバスまでは少々時間も有るので、タクシーを呼び食事処に向かい当地のB級グルメゼリーフライ」に舌鼓を打った。昼食後は再び循環バスで「行田市郷土博物館」えと向った。此処は嘗ての忍城跡に城の本丸を模して建てた鉄筋コンクリート3階建で、古墳時代から現代に至る当地の伝統と文化を広く市民に伝える目的で、昭和63年に開館さたれた博物館である。展示室には当地所縁の縄文土器や須恵器を始め、嘗ては忍城の本丸を飾ったであろう甍や鯱鉾及び忍城武士が着用した刀剣甲冑類等の他、行田と云えば足袋、足袋に関する多くの展示がされていた。天保、弘化(約170年前)の町明細図には、約1割が足袋関連の職業であったと記されている。その他、行田市の文化や歴史を物語る品々が広く展示されていた。興味深い展示が多くあり、隈なく見て回ったので此処を離れた時は既に午後4時を廻っていた。そぼ降る雨に携帯の傘を翳し、町なかを見物し乍ら徒歩で秩父鉄道は行田の駅へと向い帰路についた。



イーハトーブへ心象スケッチの旅 [旅行]

各地に起きている地球規模の巨大震災、温暖化に伴う異常気象、エネルギー問題と原発不安、互いに認め合えない国際間紛争、エボラ出血熱等の感染症、等々、近頃の世相は、唯、[不条理]だけでは言い尽くせない、坑い切れない不安と焦燥感に満ちている。危険ハーブ幼児虐待、無差別殺人等もこれらの不安と焦燥感に耐え切れない人々の心の現れと云えなくもない。賢治が存命ならば現在此の世界に起きているこの様な現象をどの様に理解し表現しただろうか?                  「俺は一人の修羅なのだ!」

敗戦で古来より伝わった日本人の心を棄てさせられ、新民法の「核家族制度」の下、若者は結婚して子供が欲しくても保育所不足で諦め、老人は特養にも入れず、老々介護に明け暮れる。こんなに我慢しても国の借金は増えるばかりで、先行きの不安は増すばかり。アベノミックスなんかで弱者は救えない。弱者が救えない政治は、不信に直結する。そして、行き場を失い、無秩序で混沌とした弱肉強食の世界に引き込まれて行く?日本人の心がこんなに病んだ時代が有ったろうか?
哲学者梅原猛氏は「近代がどうにもならない壁にぶつかり喘いでいる事実を多くの人が素直に感じる様になれば、賢治の作品は来るべき新しい世界への導きの師となるだろう。近代日本文学の中で、新しい世界へと人々の心を導く灯になるような作品は他に見当たらない。「賢治の作品に対する理解が深まり、現代の日本人が新しい世界へと向かう精神的な支えになる事を期待する」と論じている。                                            (20148月私のso-netブログの記事再掲上


残り少ない人生の思い出作り [旅行]

同じ高校を昭和28年に卒業した同期生が定年後の人生を思い「温泉巡りの会」を結成し、此処20年近く年に3~4回の割合で国内の温泉旅行を楽しんで居ります。メンバーは80歳を過ぎたお爺ちゃんばかりです。4月26日、越後も羽後に近い夕日で有名な宿に泊まり、日本海に沈む美しい夕日を眺め名湯で体を癒し,選りすぐりの御馳走を肴に地酒を味わう、残り少ない人生の思い出作りの旅に出掛けました。 今迄、旅行中に体調を崩した者等一人も居ない健康が取り柄のグループでした。処が、今回は夕食を前に急に体調を崩した者が有り、生憎、日曜日で何処の病院も休み、止むを得ずフロントに連絡し対応をお願い致しました。フロントは直ぐに客室に駆けつけ当番医に連絡を取り、救急車の手配迄,卆なく敏速に対応してくれました。病院で点滴等の手当を受け暫く休養し体調を回復する事が出来ました。お陰で、無事メンバーに合流し、楽しく旅を続ける事が出来ました。
此のホテルのフロントマン、否、フロントレディの対応は敏速で、然も、私達の要望を過不足無く充分満たしてくれた素晴らしいものでした。その間、他の従業員も全ての者が状況を把握していて、私達の要望を自然体で満たしてくれました。此の様に、お仕着せでは無く、出過ぎた行いはせず「和の心」を持った控え目な対応が出来てこそ、此の国で云われる真の「おもてなし」ではと感服した次第です。高級なホテルでも、一流の航空会社でも此れだけの「おもてなし」にはなかなか出合えないのではと感心致しました。良い冥土の土産が出来ました。

vcm_s_kf_repr_832x624.jpgvcm_s_kf_repr_832x624.jpgvcm_s_kf_repr_832x624.jpg


イーハトーブを訪ねて [旅行]

イーハトーブとは宮澤賢治が表現する作品の舞台をエスペラント風に「岩手(イーハ)東部(トーブ)」と、顕した彼の造語だそうです。
列島改造論で有名な角栄首相を刎頚(ふんけい)の友と称した同じ賢治でも小佐野さんで有名な新幹線の新花巻駅で下車した。そして国際興業の経営する「紅葉館」に宿を取った。宮澤賢治作品の舞台「台川」が近くにあるので、先ず、其の台川を「釜淵の滝」辺りまで遡り、彼が農学校教師時代の授業風景の場に浸り楽しむ事にした。稔りの秋で熊が出るとの事で、備え付けられた熊避けのベルを鳴らし、吊橋を渡り対岸の川べりに降り立った。文人墨客も多く此の地を訪れた様で鉄幹、晶子を始め多くの詩碑が見られた。

vcm_s_kf_m160_160x120.jpg

vcm_s_kf_m160_160x120.jpgvcm_s_kf_m160_160x120.jpgvcm_s_kf_m160_160x120.jpg

翌日は宮澤家が経営する「林風社」のデザインによる小型バスをチャーターし、作品の舞台を巡る事にした。手始めに予備知識を入手しておこうと宮澤賢治記念館に向かった。其処には賢治の遺稿が多数展示されていた。大部分は没後に実弟の清六氏が世に出したもので、生前には「春と修羅」他一点が発表されたに過ぎなかったと云う。此処で偶然にも花巻の青年と出会い、賢治が死を前にして心酔する法華経の菩薩の心を表現したと云われる「雨ニモマズ」について御高説を承った。(現在は通説となっているヒドリノトキハがヒデリノトキハの誤記だとされる点に付いて”あれは決して誤記などでは無く、「ヒドリノトキ」で無くてはならない。昭和の初め頃は日本列島の北部に位置する此の地方の農家は、冷害に悩まされ続け、ヒデリノトキハ喜び歓迎こそすれ涙などは流さないと云う。此の辺りの方言で「ヒドリ」とは「独り」の事で、身内で唯一人、同じく法華経を信じた最愛の妹トシを失い、妹思いの先生は、いつまでも忘れられずその寂しさから自然とあの表現をされたのだと思う。訂正などされたら原作を冒涜するものです”と抗議をされた。なるほどと思った。此処で多くの時間を割いてしまったので急ぎ童話村へ向かった。童話村では数々の展示物を拝見し、賢治の博識ぶりを再認識させられた。更にイギリス海岸を訪れたが、上流にダムが造られ残念ながら賢治が眺めた昔日のイギリスはドーバー海峡に似た風景に出合う事は出来なかった。其の後、賢治が教鞭を振るった農学校にも訪れ、移築された羅須地人協会の建物を見学した。「下の畑に居ます」と白墨で書かれた黒板を拝見し実践を重んじた彼の姿を目の当たりにした様な気分にもなった。有名な賢治像他を拝見し此処を後に宮澤家の「林風社」へと向かった。流石に宮澤賢治に纏わる記念品が多く展示販売され当地を訪れる賢治フアンに重宝がられている。此処では数冊の書籍をゲットし2階で美味しい特製のコーヒーを味った。

vcm_s_kf_m160_160x120.jpgvcm_s_kf_m160_160x120.jpgvcm_s_kf_m160_160x120.jpgvcm_s_kf_m160_160x120.jpg

                                  
 

最後に、知人に戴いた「宮澤賢治文学碑建立記念誌」にある彼の初恋に纏わる文学碑に就いて簡単に紹介する。賢治は盛岡中学卒業後、蓄膿症を患い岩手病院に入院する。其の時世話をした白衣の天使に恋心を抱くが片想いに終り、彼はその後一生独身を通した。川原仁左衛門著「宮沢賢治とその周辺」は未完の文語詩「丘」に其の所以を求めている。平成25年4月賢治没後80年にして、幻の恋人ゆかりの紫波町の城山に、熱烈な賢治フアンの寄付をもとに建立された碑には「丘」の二連目と六連目が刻まれ、隣に建つ小さな副碑には全文が刻まれている。此の石碑は実弟清六氏の孫に当たる現在の宮澤家ご当主夫人やよいさんの揮毫(きごう)を基に刻まれた。


啄木と節子 [旅行]

啄木ゆかりの旧渋民村(現在の盛岡市北部の玉山区渋民)を訪ねた。vcm_s_kf_m160_160x120.jpg此処には彼が故郷に建てたいと夢に描いていた「家」をイメージして生誕百年を記念し建てた白亜の記念館がある。敷地内には啄木が学び、成長しては教鞭をとった「渋民尋常高等小学校」の校舎が復元され、寄宿した斎藤家も移築されている。vcm_s_kf_m160_160x120.jpg又、館内には彼を偲ぶ興味深い資料が多く保存されていた。非凡な才能の持ち主の所為か、中学時代の友人や、移り住む先々の同僚、友人、知人も多士済々である。其の縁を全て自己文学追求のみに利用し、後は辺り構わず遊興三昧に過ごした生き方には些かの反感も覚えた。特に、盛岡中学で一年先輩であり親友でもあった金田一京助氏の無償の援助を、当然の如く受け入れて憚らぬ様には、友情を超え利己的で厚かましささえ感ずる。あまりにも自己中心的で、関わる人々を犠牲に、行く先々で恋愛沙汰を起し、親友の財布を当てに、芸者や娼妓を相手に遊興三昧に過ごし26年と云う短い人生を走り終えた時、彼の名は僅かに辺りに散見するに過ぎなかった。(彼の放蕩三昧な生活ぶりは、ローマ字日記に詳細に記述されている。(いまわ)(きわ)に焼却する様、妻に依頼したのだが、彼女は敢えて金田一氏に渡したので現存している。教養ある彼女はローマ字位、容易に読んでいた様である。)啄木と節子の短い結婚生活を振り返って見ると、啄木は盛岡中学2年13歳の時、文学青年の寄り合いの場である市内の堀合家でミッションスクールに通う同家の13歳の娘節子を見染め、恋愛の末19歳で結ばれた。然し、啄木の放浪癖と女性遍歴、放蕩三昧で無頼な生き方の為石川家は常に極貧状態にあり、節子の生活も又苦難の連続で有った。26歳で啄木が肺結核により亡くなった時、節子も病身の上2番目の子を宿していた。身の振り方に困り、同窓でカトリック信者でもある啄木の妹光の口利きで房総は館山の北条海岸に住む片山かの宅に長女京子と共に身を寄せた。生活費や医療費は全てキリスト教事業団が賄い、英国人の医療宣教師の手に依りそこで次女を出産した。房総で生まれたので、彼女は其の子に房江と名付けた。節子は、京子・房江の遺児を連れ、函館に移住していた実家に帰り借家生活を始めたが、翌年の1913年(大正2年)55日、啄木と同じ病肺結核で死亡。享年266カ月。 啄木の死後微か1年であった。

年を経る毎、翳は記憶より消え去り、輝ける処のみ、一層鮮やかに映し出され、出版社は先を争って啄木の遺稿を出版し、昭和初期には彼の名声は世間を席巻するに至った。

花待たず陸奥(みちのく)流離(さすらい)憧れし詩人(うたびと)を知                                      




日光高原、緑、足利へdriveに行って来ました [旅行]

4日から日光方面へ1泊でdriveに行って来ました。「霧降高原」の牧場で昼食を採り「奥鬼怒」は川俣湖近くの宿に泊まった。好天に恵まれ素晴らしいdrive日和だった。然し2000mを超える高原は既に落葉して、目指す紅葉には出会えなかった。霧降高原の牧場を出て更に登り、峠を越え暫く行くと、切り立った断崖の岩肌と原生林の対照が美しい瀬戸合峡に到達する。其処から鬼怒川の上流に沿って曲がりくねった道を暫く行くと、川俣湖に到達する。川俣湖を過ぎると間も無く鬼怒川最上流の渓谷に貼りつくように温泉宿がある。此処が平家落人の部落、秘湯,川俣温泉郷である。道路沿いの玄関より川に向かって下りた川岸に露天風呂や客室を持つのが此処の特徴である。間欠泉も先の台風の影響で湯気が僅かに立ち昇るだけ、静寂を破るものは何もない。まさに深山幽谷の雰囲気で、源氏との戦いに敗れた平家郎党が落ち延び隠れ住んだ落人の里伝説のイメージそのままである。また、山の狩猟民「またぎ」の伝統も残り、山菜や岩魚だけでなく今でも鹿や熊の真紅鮮やかな肉、山椒魚といった珍しい山の幸を味わうことが出来るのも魅力の一つ。世間から隔てられた鄙びた谷のいで湯には、身をひそめて暮らした落人たちの思いが今も息づいている。
帰路は落葉松林の「戦場ヶ原」を経由し、中禅寺湖畔を走り、「いろは坂」を下り、緑市の「富弘美術館」に立ち寄り、「足利学校」を目指した。美術館の手前辺りからは高度も低くなって紅葉が見頃で素晴らしかった。 鎫阿寺(ばんなじ)に「足利学校」が有る事を知らず少し迷ってしまった。然し、渋滞も殆ど無く楽しい2日間でした。vcm_s_kf_repr_832x624.jpg

vcm_s_kf_repr_832x624.jpg

vcm_s_kf_repr_832x624.jpgvcm_s_kf_repr_832x624.jpgvcm_s_kf_repr_832x624.jpg

vcm_s_kf_repr_832x624.jpg

 


 


「イーハトーブ」へ(賢治の心象スケッチを感じる旅) [旅行]

各地に起きている地球規模の巨大震災、温暖化に伴う異常気象、エネルギー問題と原発不安、互いに認め合えない国際間紛争、エボラ出血熱等の感染症、等々、近頃の世相は、唯、[不条理]だけでは言い尽くせない、坑い切れない不安と焦燥感に満ちている。危険ハーブ幼児虐待、無差別殺人等もこれらの不安と焦燥感に耐え切れない人々の心の現れと云えなくもない。賢治が存命ならば現在此の世界に起きているこの様な現象をどの様に理解し表現しただろうか?    「俺は一人の修羅なのだ!」

敗戦で古来より伝わった日本人の心を棄てさせられ、新民法の「核家族制度」の下、若者は結婚して子供が欲しくても保育所不足で諦め、老人は特養にも入れず、老々介護に明け暮れる。こんなに我慢しても国の借金は増えるばかりで、先行きの不安は増すばかり。アベノミックスなんかで弱者は救えない。弱者が救えない政治は、不信に直結する。そして、行き場を失い、無秩序で混沌とした弱肉強食の世界に引き込まれて行く?日本人の心がこんなに病んだ時代が有っただろうか?

哲学者梅原猛氏は「近代がどうにもならない壁にぶつかり喘いでいる事実を多くの人が素直に感じる様になれば、賢治の作品は来るべき新らしい世界への導きの師となるだろう。近代日本文学の中で、新しい世界へと人々の心を導く灯になるような作品は他に見当たらない。 「賢治の作品に対する理解が深まり、現代の日本人が新しい世界へと向かう精神的な支えになる事を期待する」と論じている。     




恒例の成田参り [旅行]

正、五、九は成田山参詣月ですので、お参りに行って来ました。外人さんの姿もチラホラ見え、皆でワイワイガヤガヤと楽しそうにおみ籤を引いていました。帰りに参道をブラツキ成田名物を求め、帰路は高速に乗らず一般道を走り、酒々井のアウトレッドに寄りました。

vcm_s_kf_repr_832x624.jpgvcm_s_kf_repr_832x624.jpgvcm_s_kf_repr_832x624.jpgvcm_s_kf_repr_832x624.jpg欅作りの総門


啄木記念館訪問 [旅行]

vcm_s_kf_m160_160x120.jpg

素晴らしい才能の所為か、中学時代の学友や、転々と移り替る先々の同僚、友人、知人にも恵まれ、其の縁を、全て自己文学の実現に利用する姿には驚嘆致しました。中でも、中学の先輩で親友でもあった、金田一京助氏が彼の才能を見込んでか?家財道具や大切な蔵書迄も売り払い、与えた無償の援助を、当然の如く受け入れて憚らぬ姿は、友情を超え些か利己的で厚かましささえも感じました。(秘密にしていたローマ字日記には感謝していた様子を伺える処もある様ですが)

斯様に自己文学の追求、唯一点の人生。家庭内は必ずしも平穏とは云えず、貧困で生きるに精一杯な生活(くらし)の中、自堕落で放蕩三昧に、然も、性急に結末を急ぎ過ぎた天才は、26年の人生を走り終えた時、僅かに才能の片鱗を辺りに散見させるに過ぎなかった。

然し、没後、年を経るごとに評価は上がり、各社は先を争って遺稿を出版し、昭和の初期には既にその名声は欲しい儘、大家の趣を備えるに至っている。

「年を経るごとに翳は記憶より消え去り、輝ける処のみ際立ち、鮮やかに映し出される。」「天才たる者、人生を終え、始めて万人の認める処となる」所以でもあろう。

この地に訪れしを機に、在りし日の彼の生き様に想いを馳せ、天才とはなんぞやを問うも又、一興と思う。素晴らしい才能を持ちながら、それを発揮する機会もなく「偏屈人間」として 生涯を閉じる者、病気、事故などの不幸により能力を発揮する前に亡くなる者も数知れず.         「下総は印旛が沼の畔にて遊び、学び、且つ語り合いし友と

傘寿を前に此の地にさすらい、遺薫に浸る」