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“此の道しか無い”戯言・・・アウフヘーベン [政治経済]

企業業績が回復し、日経平均株価も年初来の高値を示している。安倍のミックスは成功している様には見える。然し、多くの人々は豊かさを実感出来ないと云う。何故か?

①低利と空前の金融緩和で、市場にダブついた資金は行方を捜し株式市場に流れ込んだ。 ②政府は運用資産150兆円にも登る年金積立金管理運用独立法人(GPIF)メンバーの厚労省人事案を認めず入れ替え、公的年金に依る株式運用比率を引き上げた。        ③中立であるべき日銀金融政策を決定する審議委員は、長期政権下全員が緩和支持派に変えられた。此の様に国会の同意が必要な人事は全て一党独裁の政権が握り独立して合議制で政策を判断する中央銀行の審議委員迄も歪められてしまった。

◎安倍のミックスは金融緩和と財政出動で時間を稼ぎ、其の間に規制緩和等で産業の成長を図る図式であったが、金融緩和ばかりが先走りして、本来あるべき姿の産業が地力を付けるに必要な環境整備や規制改革を怠って来た・・

日銀は政府が発行した赤字国債を大規模な買いオペで回収、更に独自で大量の株式を買い取り大量の通貨を市場に流して金融緩和を図り、未だに円安による外需景気を期待している。

今や東証1部上場約2000社の半数近くの大株主は事実上公的年金と日本銀行である。  円安も株高も全て政府が仕組んだ見せ掛けの実態の伴わぬ官製景気。之が安倍のミックスの正体である。多くの人々の実感が伴わぬのは当然である。

此の2000社の半数にも登る企業は、やがて株主である国の方針に従って運営される様になってしまう。其の下請企業も然り・・・此の国は社会主義国家になってしまうのか?

金融緩和を何時迄も続れば、国家と雖もデフォルトする。早期に出口を見つけ脱出しなければ、債務超過で国債等誰も買い手の無いハイパーインフレになり、社会保障等とても望めない状態に陥ってしまう。然し、例え出口を見つけたとしても、脱出するには多くの難問が控えている。其れを解決せずに後に回す政策は如何なものか・・・

今回の選挙も、前回、前々回、同様に消費税の使途を民意に問う選挙である。過去2回は増税を延期して財政再建を先に延ばした。今回は増税分を本来の財政健全化に遣うのでは無く、耳障りの良い「教育無償化に遣う」と云う。・・・

やはり前回、前々回、同様に財政再建を先に延ばしても良いか?を問う無責任な選挙である。次の政府予算も大規模で借金(国債)で賄う事になっている。1000兆円をはるかに超えた借金を持つ財政の再建を又々先に延ばす事に変わらない。そして、その結果を、何度も選挙で国民に問うた。之は時の政権の責任では無く国民の選択だと云い訳する為である。

敢えて、今回の選挙の大義を問うならば・・・増税の果実は今の私達が使ってしまい{大借金の返済は孫子の代に廻すが其れで良いか?}を問う無責任な「真に虫の良い選挙」である。・・・こんな事の繰り返しでは”決して此の国に明るい未来等はない!”・・・

来る10月22日には(都合の悪い人は事前投票で)必ず投票して自分の意思を国政に反映させ

よう!今回の選挙から18歳以上が有権者となりました。

            原宿にて

原宿駅前


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新勝寺参詣 [お参り]

早いもので、9月も残り少なくなりました。正・5.9.は成田山新勝寺の参詣月ですので、都合を付け、お参りに行ってきました。相変わらず参詣者が多く、駐車場も境内も大分賑わっていました。参詣後、信徒会館で休憩し、参道で土産物屋を冷やかし、名物の羊羹を少し求めてきました。空港に近いせいもあり外国の方もちらほら見受けられました。


・護摩行を終え本堂より退出する僧侶・      ・休憩した信徒会館・

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戦争遂行に利用された虚像 [歴史]

DSC00005.JPG日清、日露から大東亜戦争敗戦に至る我が国の政治を顧みるに、所謂、長州閥と称される「松下村塾」の影響を受けた政治家達抜きに考える事は難しい。刑死した松陰を神格化し、彼の覇権主義的な部分を政治に取り入れた事に全てが始まる。

松陰は1830年長州の萩に長州藩士の次男として生まれ、5歳にして山鹿流兵学師範の叔父の養子となる。21歳から国内各地に旅し、自己の知識を研鑽し倒幕の必要性を思考する様になる。1854年米艦に密航を企て投獄される。1857年叔父の塾を継ぎ、新たに「松下村塾」を主宰した。其処では武士以外の兵を含む騎兵隊を創設した高杉晋作や久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、山形有朋、伊藤博文等々、維新後、明治政府の柱となった人材を多く輩出した。

松陰は1859年大老井伊直弼の「安政の大獄」に連座し斬首されたが、其の理由の一つに・・・幕府老中及びペリー提督暗殺計画の実行を久坂玄瑞宛てに命じた内容も検証されている。

幕府老中とは当時老中であり欧米事情に明るい佐倉藩主堀田正睦であり、米国艦隊ペリー提督は堀田備中の守正睦と米国公使タウンゼント・ハリスの日米友好通商条約の前交渉に当たっていた。

「松下村塾」が下級武士や平民、百姓にも門戸を開き、平等思想実現を目標に教えていた様にも云われるが、実は「国を守るは武士であり武士こそ第一と身分秩序を重視する思想も有していた。

一方では、日本がアジアを制し西欧列強に対抗する戦略を考え「朝鮮を取り、満洲を拉し、志那を圧し、インドに臨み、以って進取の勢いを張り云々」と説いている。

原田伊織氏は著書「明治維新と云う過ち」に、維新後の日本は長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力とし、松陰の主張通り広大なエリアに進出し、最後には自国迄滅ぼしてしまったと記している。

“松陰の本質は教育者以前に革命家であり、要人暗殺を謀り政権転覆を図った「テロリスト」と云っても過言では無い。

教育者の面が強調され始めたのは、大正の終りから昭和の初めに掛けての軍国主義華やかなりし頃であり、1927年の「修身」の教科書には、松陰は「松下村塾」を開き、「尊皇愛国の精神を養う事に務めました」とだけ書かれている。然し・・・松陰は死後神格化され弟子達に利用され続けた。 当初、松陰の尊皇攘夷思想は長州でも異端視されていた。・・・尊皇攘夷は本来倒幕要素を含むイデオロギーでは無いにも拘らず、長州では 1862年以後次第に其れが倒幕的色彩を帯びていった。刑死した恩師松陰を久坂玄瑞を始めとした塾生達が神格化し、倒幕の象徴として祭り上げ、維新以後は多くの長州閥政治家達によって戦争遂行の為利用されて来た。

・・・神格化された吉田松陰は使い勝手の良い虚像であり、裏に多くの思惑を感ぜずにはいられない。

 

 

 


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維新以後8名も総理を出した長州 [旅行]

DSC00002.JPG 一地方に過ぎぬ山口が何故?8名もの首相を出し得たか?

長州の歴史を実感してみようと羽田から空路旅に出た。

次回は長州出身の政治家の心の糧となった吉田松陰に付いてこの旅で得た私感を少し述べさせて戴く積りです。

県史概略

【古代】
 アジア大陸に近い山口県は、早くから大陸文化の影響を受け、紀元前2~3世紀には稲作技術が伝わり、水稲耕作が行われてきた。4~5世紀頃、大和政権による統一国家が形成され、6つの国造(くにのみやつこ)と1つの県(あがた)が置かれ、更に、7世紀には、大化の改新により、周芳(すわ)=周防(すおう)、穴門(あなと)=長門(ながと)の2国に統合。

【中世】
 平安時代から鎌倉時代にかけては、周防国では朝鮮半島の百済の王族を祖と称する大内氏、長門国では厚東(ことう)氏が、確固たる地位 を確立した。
 室町時代に入ると、大内氏が、弘世(ひろよ)(24代)の時、防長二国(周防、長門)を平定した。そして、山口に京の都を模した町を造ると共に、朝鮮や明との貿易で財力を蓄え、大陸文化の導入に努めた。其の結果 、山口は全国で有数の大きな都市として栄え、「西の京」と呼ばれるようになり、大変華やかな大内文化が開花した。
 栄華を誇った大内氏も、義隆(よしたか)31代が家臣陶晴賢(すえはるかた)に討たれて衰え、其の陶氏を厳島(広島県宮島)の戦いで破った毛利元就が、やがて中国地方のほぼ全域に勢力を広げた。元就の孫の輝元は、豊臣政権にあって、8カ国を領国とするなど最盛期を誇った。

【近世】
 然し、1600年の関が原の戦いで敗れた毛利氏は、周防・長門2国36万9千石に領地を減らされてしまい居城を萩に築いた。以後、毛利氏は、もっぱら内政の充実に努めたが、藩財政は困難を極め、歴代の藩主は厳しい検地によって増石を計る一方、「防長の三白」(米、紙、塩)」に櫨蝋(はぜろう)を加えて「四白」)と云われる殖産政策を勧め、藩財政の強化に努た。其の結果 、長州藩は幕末には約100万石の実力を持つ様になった。又、藩校明倫館を中心とする教育風土は吉田松陰、高杉晋作など数多くの人材を輩出し、明治維新を推進する中心的存在となり、我が国の近代国家成立に大きな役割を果した。

【近現代】
 
幕府が滅び明治政府が成立(1868年)すると、長州藩は他藩に率先して土地と人民を政府に戻し、1871年の廃藩置県により現在の山口県が誕生。明治政府は、多くの新しい制度を取り入れ、近代化政策を推し進め、中でも、近代工業の導入と振興に努めた。当県ではセメント製造や硫酸製造の工場設立する等、近代工業の芽生えが見られたが、まだ明治時代は農業を中心産業とする県であった。
 大正期に入ると、県内の豊富な鉱物資源や恵まれた港湾条件等を利用し、瀬戸内海沿岸地域には、造船、化学、機械、金属等の工場を次々に設置し、昭和の初期には農業県から工業県へと転換した。其の後も重化学工業を中心に成長を続け、第二次世界大戦後には、石油化学コンビナートを形成する等、全国有数の工業県に発展した。

一方、農業、林業、水産業等の第一次産業は工業化の進展と共に産業としての比重が低下した。更に、近年に於いては都市化の進展に伴って、商業、サービス業等の都市型産業が成長を続け、従来の産業分野を乗り越えた多彩な産業活動が活発化し、新産業の創出や新規事業の取組み展開している。 県の人口推移は、明治維新の頃に約80万人であったが、明治の終り頃には100万人を超え、第二次世界大戦後(1948年頃)には150万人を突破。其の後、一時期160万人を超えたが、近年人口の大都市集中や少子化等に依って減少傾向にある。

 

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国立歴史民俗博物館 [写真]

vcm_s_kf_repr_832x624.jpg国立歴史民俗博物館にお出掛けの際は、是非、四季の移ろい豊かな佐倉城址公園を散策し、日米通商友好条約締結に尽力された堀田正睦及び米国大使タウンゼント・ハリス両公の像をも御覧下さい。

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歴史に残る堀田公の家系 [歴史]

 将軍綱吉の初期の大老堀田正俊天和の治(てんなのち)と云われる一時代を築いた。

我が物顔で幕政を取り仕切る旧門閥を押さえ、将軍の意を存分発揮出来る体制を築いた。然し、江戸城内の御座の間で、若年寄り稲葉正休に突然殺害されてしまった。下手人稲葉も現場に居た老中に取り調べもせず討ち果たされた。何故?殺害されたかは不明である。大老の権力増大を恐れた将軍綱吉の意を受けた上意討ち?との説もある。                  天和の治(てんなのち) 

将軍綱吉と云えば、「生類哀れみの令」や側用人柳沢吉保の重用などで評判の悪い将軍である。然し、初期には天和の治と呼ばれる立派な改革を行い、後の徳川吉宗にも影響を与えている。其の綱吉の改革の中心的役割を担ったのが大老の堀田正俊である。春日局の養子で、綱吉の兄である家綱の小姓となった事から出世し、1867年には老中に迄上り詰めた。そして家綱死後に起こった将軍継嗣問題で、「京都から天皇家の血筋の者を連れてくればよいと」と云う大老・酒井忠清に対し「綱吉殿がおるではないか」と主張。結局、正俊が勝ち、正俊は大老となった。 将軍綱吉と大老堀田正俊は「綱紀粛正」にを力を入れ、治政不良の大名は次々と処罰した。御家騒動等は論外で、代官の不正さえ一切許さなかった。一方、真面目な者達は表彰する、信賞必罰で政治に臨み、堕落した幕府と大名を厳格に取り締まった。其の他、財政再建に関しては、勘定吟味役を創設し不正を厳格に取り締まった。
 だが1684年に、如何なる理由からか大老堀田正俊が、甥の若年寄り稲葉正休に殺されてしまう。一説に依れば綱吉の命で殺したと云い。又、一説によれば、正休の立てた淀川改修工事を巡る費用見積4万両に対し、堀田正俊が独自に専門家の河村瑞賢に調査させた処、半分の費用で済む事が判明、面目を失った正休が大老を殺したとも云われている・・・。

 此の頃から綱吉は政治に飽き、側用人柳沢吉保を重用し、寺社建立など趣味に浪費を重ねる様になっていった。之を機に将軍綱吉は老中の力を削ぐ事に力を入れ、正俊の遺児も僻地に左遷し、以後の幕政は将軍綱吉の絶対的親政となり実務面は側用人、特に柳沢吉保を中心に動く事になった。従来の日本史にある犬公方綱吉の悪政が行われた元禄時代に突入する。綱吉の統治時代は強力な独裁政治が行われ、其の腹心が天和期では堀田正俊であり、元禄期は側用人柳沢吉保であった。 

 

堀田正睦=「国運を伸長するの道は開国に有り、国力を増強する策は通商に有り」との信念を持つ佐倉藩主堀田正睦は尊王攘夷鎖国派の福山藩主安倍正弘に替わり老中首座に在って日米友好通商条約締結に向け尽力した。条約の締結は大老の井伊直弼であるが、事実上日米友好通商条約を纏めたのは直前まで老中首座にあった堀田正睦と米国公使タウンゼントハリスであった。

国立歴史民俗博物館の有る佐倉城跡公園には、両公の偉業を偲び佐倉藩主堀田正睦公及び米国公使タウンゼント・ハリス公の像が地元有志に依り建てられている。

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日米修好通商条約 [史実]

私達が日本史で学んだ日米修好条約は不平等で稀代の悪条約とされていた然し、現在では、此の条約も見直されて、此の条約があったればこそ、我が国は清国を始め、インドや東南アジア諸国の様に 西欧列強の餌食になもらず、植民地にもされずに、近代国家として独立存続する事が出来たと考える人も多くなっている。  何故ならば 、日米修好通商条約はアメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無かった事等から、一般に不平等条約と云われるが、条約の付則第七則で定められた関税率は、漁具、建材、食料などは5%の低率関税であったが、それ以外は20%であり、酒類は35%の高関税であった。又、第二条に「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定されており、・・・之は、欧羅巴列強と我が国の間に揉め事が発生した場合、アメリカが仲立ちをする事を宣言したもの・・・で、 「安政5か国条約」の相手国(イギリス・フランス・オランダ・ロシア等欧羅巴列強)は我が国との間に揉め事が発生した場合にはアメリカ大統領を相手に交渉する事を覚悟せねばならず、中国や東南アジア諸国の様に、た易く自国に有利な取り決めをする事は不可能であった。

此の条約は大老井伊が締結し、13代将軍家定が署名したのだが、 実は・・・尊王攘夷鎖国派の老中首座福山藩主安倍正弘がハリスとの交渉に行き詰り、困り果てた挙句、西欧列強の事情に明るい、アヘン戦争や植民地の状況を熟知し、最早、此処に至って鎖国継続は・国の行く末が危うい・と懸念する佐倉藩主・堀田備中の守正睦を老中首座に推挙し、タウンゼント・ハリスとの交渉全てを任せていた。・・・ 堀田は八方に手を尽くし此れを纏め上げ、締結寸前にあった。                   然し、尊王攘夷を旨とする公家八十八卿や、”備中には腹を切らせハリスは首を刎ねる!”と迄云う尊王攘夷の総帥、水戸の烈公「斉昭」の反攻は強烈であり、其の対応に苦労していた。・・・       折しも、紀伊の慶福か水戸徳川斉昭の7男、一ツ橋慶喜か?第13代将軍家定の後継問題が勃発した。・・・堀田は之を利用し、「斉昭」籠絡の為、慶喜を推挙する策に出た。 其れを疎ましく思う紀伊の慶福を推していた将軍は、突如、堀田を罷免し、井伊直弼を大老に任じてしまった。条約は堀田正睦とタウンゼント・ハリスが纏め上げた儘の内容で井伊が締結する事になった。史上、此の条約に堀田正睦の名は無い。堀田が全てを成し遂げていたならば・・・やがて明治維新に繋がる・安政の大獄も桜田門外の変も避けられていただろう。 ・・・佐倉城址公園には此の条約を纏め上げた藩主の偉業を偲び、堀田正睦及びタウンゼント・ハリス両公の銅像が地元有志に依り建立されている。    国立歴史民俗博物館見学の際には四季の移ろいを鮮やかに映し出す此の公園を散策し是非ご一覧戴きたい。                                             

 


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歴史を考える…再び過ちを犯さぬ様・明治維新を見直そう・・・ [近代史]

私達が学んだ歴史では薩長連合は攘夷を唱え開港に反対し、王政復古を旗印に庶民を巻き込んで倒幕し、自前の新政権を立ち上げて、明治維新を成し遂げた。更に、富国強兵を唱え、日清、日露、の戦いに勝利し、大東亜戦争に突入した・・・。であるが、日清、日露の戦いから大東亜戦争(第2次世界大戦)敗戦に至る間は司馬遼太郎が著書「此の国のかたち」に、日本の歴史上「異胎の40年」と表現されている、・・・即ち、長い日本の歴史上、此の国が辿って来た有様とは全く異なる40年・・・即ち、全てが戊辰戦争勝利の「勝てば官軍」の理屈が罷り通った期間・・・、其の陰に活躍した維新の立役者と云われる数々の英雄が・・・果たして如何なる者であったのか?・・・多くの疑問が残る。・・・

明治維新は尊王攘夷を唱える薩、長、土、の下級脱藩浪士達(現在で言うなればテロリスト達)が幕府及び譜代大名の弱体化に乗じ日米修好条約に基づく開港にクレームを付けて、運よく倒幕に成功し・・・、当時彼等の戦力及び資金力を幕府方と比較して彼等・薩長土連合の勝利は運を除い考えられない)・・・王政復古を名目に天皇の名を語る自前の政権を立ち上げたに他ならない。・・・そして、旗印であった尊王攘夷を翻し、夷国・西欧の制度を真似た自前の政権を立ち上げ、臆面もなく鹿鳴館に代表される上辺だけの西欧文化に現を抜かす体たらくを演じた。・・・更に日清、日露戦争の勝利を、国力に依ると過信してしまった事である。・・・日清戦争の勝利はアヘン戦争及び、アグイン条約に伴う露国及び西欧諸国による植民地化と清王朝の乱れ等相手国の内部事情が全てであり、日露戦争の勝利も又、赤化に伴う帝政ロシアの混乱に乗じての勝利で、決して連合政府率いる我が国の力が優れていた訳で無い事は明白である。・・・之等の勝利は全て“漁夫の利”で有ったのだが、実力と思い込んだ陸軍参謀本部は当時天皇だけが持つとされた「統帥権」迄を干犯し、為すが儘に大陸に出兵し、満州国を建国し、朝鮮半島も含め配下に収め、更に世界の一等国たらんと夢見て先の大戦に臨み惨憺たる結末を招いてしまった。・・・ 之が戦前のレジュームであり、司馬遼太郎氏の云う「異胎の40年」の根幹である。戦後レジュームより脱却して何処に向かう?・・・「異胎の40年}に向うのであれば「悪夢再来」と云うより他は無い・・・敗戦に依り、漸く我が国本来の歴史に繋がる機を織る機会が到来したと云うに・・・ 

 

 

 

 

 

 

 


二本松少年隊 [旅行]

3月下旬、久し振りに岳温泉に遊んだ。東京駅は22番線ホームで落ち合い、郡山駅で東北本線に乗り換え二本松駅に降り立つ。駅舎を出たとたん、先ず目に付いたのが鉢巻をキリリと締め、刀を振りかざした少年の像である。・・・・台座には・二本松少年隊士像・「霞城の太刀風」・と刻まれている。
鳥羽伏見の戦いに続き、戊辰戦争が始まり、京都守護職であった会津藩主松平容保を目の仇と狙う薩長連合の官軍は錦の御旗を掲げ、会津は鶴ヶ城を目指し怒涛の進撃を開始した。東北諸藩は、「奥羽越列藩同盟」を結成し之に立ち向かった。・・・・其の頃、二本松藩では西洋流砲術師範の長男木村銃太郎が、江戸での修業を終え二本松に戻り、砲術指南をしていた。(NHKの大河ドラマ「八重の桜」でも取り上げられた、二本松藩の少年隊は銃太郎と其の門下生=13歳を最年少とするあどけない少年ばかりである。)・・・・二本松藩は各藩に応援兵を出し、中でも白河小峰城へ出した援軍の武士達が戻らぬ内は、城内、城下は空虚同然であった。折しも7000を超える新政府軍は周辺にまで迫り、猛烈な勢いで攻め込んで来た。城を守る正規軍は殆どおらず、僅かな老兵と銃太郎率いる少年隊があるのみ。城代家老で軍事総督の丹羽富穀は、止むを得ず、断腸の思いで木村銃太郎を隊長とする此の少年達に出陣の許可をした。銃太郎率いる砲術部隊は最大の激戦地、城南の大壇口(おおだんぐち)に出陣、門下生16人を含む25人の少年隊士は果敢に応戦した。他に12歳から17歳の少年も此れに續き、合わせて62人の少年達が官軍に立ち向かった。然し、多勢に無勢、刀折れ矢弾尽き、少年隊は隊長の木村が先ず戦死。更に副隊長も後に続き、14名の少年達が此処に命を落とした。二本松藩主丹羽家菩提所「大隣寺」の境内には隊長木村銃太郎、副隊長二階堂衛守を含む少年隊戦死者14人の供養塔が建立されている。維新の夜明けを待たず、愛する郷土及び家族を守るため激戦の果てに散った少年隊士を弔う参詣者の献花と香煙は、今なおその悲劇を伝えている。此の戦いに殉じた純粋可憐な少年達は、会津白虎隊に優るとも劣らないと伝えられる。

 




















 




史上「異胎の40年」と最近の政情 [近代史]

明治維新は、尊王攘夷を唱える薩長連合が、幕府及び譜代大名の弱体化に乗じ、開港を理由に倒幕し王政復古を建前に天皇を利用し、自前の政権を立ち上げたに他ならない。倒幕に成功するや、尊王攘夷を翻し、西欧を真似た連合政権を打ち立て、臆面もなく鹿鳴館に代表される上辺だけの西欧文化に現を抜かす体たらくを演じた。更に、日清、日露の戦に勝利した事で国力を過信した。                                然し、日清戦争の勝利はアヘン戦争、アグイン条約に伴う西欧諸国による彼の国の植民地化と清王朝の乱れ等相手国の内部事情が全てであり、日露戦争の勝利も又、赤化に伴う帝政ロシアの混乱に乗じての勝利で、決して連合政府率いる我が国の軍が優れていた訳で無い事は明瞭である。これ等の勝利は全て漁夫の利で有ったのだが、実力と思い込んだ陸軍参謀本部は当時天皇だけが有した「統帥権」までを干犯し、為すが儘に大陸に出兵し、満州国を建国し、朝鮮半島も含め配下に収め、更に世界の一等国たらんと夢見て先の大戦に臨み惨憺たる結末を招いてしまった。・・・・            

昨今の政治情勢を鑑みるに、・・・・前段の史実を知るや知らずや、司馬遼太郎氏の云われる日清、日露戦争以来大東亜戦争に至る「日本史上異胎の40年」の反省を試みる迄も無く・・・・、小選挙区制度に依る権力の肥大を好い事に、権力者が往時に郷愁を覚え、多くの学者の違憲論にも聞く耳持たず、改憲も径ず、嘗ての統帥権干犯まがいに国民主権を犯し、同盟国と肩を並べて海外に派兵し、世界のリーダーたらんとする思い上がりには聊か穏やかならむ気配を感じる。・・・・ 戦後レジュームよりの決別を唱えるに至っては、此の上無き不安に怯える。




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